インタビュー|ドキュメンタリー映画『ドコニモイケナイ』

「 イノチ 」 という、その中身はなんなんだろう。
楽しさ、嬉しさ、喜び、怒り、悲しさ、苦しさ、辛さ、空しさ、寂しさ…
いろんな感情が詰まっているその中で
自分が望む人生を生きることと、「 イノチ 」 を生かすことは違うことなのだろうか。

どうして吉村さんを撮ろうと思ったのか?

彼女は、自分がやっていることにはすごくポジティブというか、「 歌手になりたいんだ!」 って純粋に夢を追いかけているという感じの印象は受けたんですけど、彼女自身、実は高校時代に鬱病や異人症を抱えていて。それを抱えながら、ヒッチハイクで渋谷まで来ちゃうっていう彼女のエネルギーと、その裏にある彼女の苦労してきた部分を聞いているうちに、いろいろ感じるものがあったんですね。
ご覧になって吉村ひさとっていう女性に 100% 感情移入はしないんじゃないかなと僕は思っているんですよ。言っていることが結構はちゃめちゃというか、どこからくるかわからない自信とか、そういうものに裏打ちされたというか、支えられたっていう感じがしたんですよね。当時の僕から見ても、福岡からわざわざ出て来てすごいなっていう反面と、「 何言ってんだこいつ 」 っていう苛立ちの中で、でも両方感じるってことは、強い何かがあるってことですから、それで撮っていったという感じですかね。

撮るということは、彼女と向き合う事だと思うが、どういう想いで撮り続けていたのか?

映画を見ていただくとわかると思うんですけど、なぜ彼女がそうなったのかってことに関して、ほとんど僕たちは映画の中で示そうとしてないんですね。それは、映画を作る人間がやることではないっていうふうに僕は思っていて。僕自身もそういう分析的なことで彼女と関わっていたのではなくて、普通の人間として、友達としてというか、知り合った仲間として彼女に接していましたね。

〜 彼女の生きづらさ 〜

吉村ひさとは、親の離婚やお父さんの事だったり、いろいろな背景もあるんですよ。でもそこから20年近く経った19歳のときに、渋谷という街に来てああいう生活をしている中で、じゃあ彼女が精神的にまいってしまうその引き金に、その 「 お父さん 」 というのは何割絡んでいて、夢を追い続けるその気持ちが何割関わっていて、実は渋谷で恋愛も失恋もしていて、彼女が壊れちゃう1週間前に実は彼氏に振られているんですよ。でも、どれが本当に引き金で、どれが本当の彼女の苦しさで、どれっていう一つじゃなくて、3つなのか4つなのか、僕らが知らない何かがあるのか、渋谷っていう街が抱えている地場みたいなものがあるのか… って考え始めると、「 あ、分かんないな 」 って思っちゃいましたね。僕にはそれはわからないけど、彼女が精神的にまいってくる映像を見ると、本当に苦しいことはわかる。僕にわかることはそれだけなんですよ。彼女は本当に苦しかったんだと。僕たちは彼女を避難とかもしたし、「 ちゃんとした方がいいんじゃない?」 「 そういう生き方をしたらそうなってっちゃうよ 」 ってことも言ったんです。でもそういう事も含めて、じゃあ自分が彼女の立場だったら、あれだけ苦しくて自分がああなってしまうかも分からないわけですよ。ただ、ああなった彼女を見ていて、それだけ苦しいんだなっていうことは感じましたね。

〜 彼女の変わりゆく様子を見て 〜

病院から退院する時は、返答も割とあんまり… 最初に会ったときはガンガン話しかけて来て、「 私ね、私ね 」 って感じだったのが、そういうのが一切なくなってしまって。常に僕は、「 なんで僕は生きているんだろう 」 というところから始まっているので、誤解のある言い方かもしれないですけど、ここまでして生きなきゃいけないのかっていうことも考えたし。それはすごく彼女に対しては失礼な言い方で、彼女はたぶん生きたいと思っているし、それはそれで僕が何か言うことじゃないんだけど、やっぱりそれくらい強力な彼女の変わり用だったというか。自分がそうなっていったときに、果たしてそう前向きに生きるってことを選択できるのかなぁっていうことも考えました。

〜 彼女の苦しみと接して 〜

どうしても人を見るときに、自分の尺度で、その人の辛さとか嬉しさとか、何でもはかっちゃうじゃないですか。それはまだまだ僕もあるし。だけど、やっぱりこの作品を撮っていて、「 でもやっぱり辛いんだよね 」 ということとか、「 やっぱり彼女はそれができないんだよね。で、それはどうしようもないんだよね 」 というところから話をスタートしないと、結局、排除する以外に関わりがなくなってしまうというか、それはちょっと違うだろって。排除してしまうというわけにはいかなくて。
自分たちが目指すのって一体どこなんだろうということも思いました。僕が彼女と関わっていて、最終的に彼女が 「 社会 」 という枠の中で生きていってほしいのか、もう生きてるだけでオッケイだよっていうところになるのか。なんか、苦しいんだけど社会のルールの中でなんとか生きていくのか、もうそこは諦めたっていう生き方と、どっちが幸せだろうという話になってくると、もう分からないから。

どうして 「 ドコニモイケナイ 」 というタイトルにしたのか?

非常に強い言葉なので、与える印象が強いじゃないですか。「 ドコニモイケナイ 」 ってすごく暗いというか、閉鎖的というか閉じてるタイトルなので。例えば、もうちょっと柔らかくとかいろいろ言われてはいるんですね。ただ自分が一番最初に、ある方とずっと喋りながら最終的にこのタイトルでいい、おもしろいなって思えたのが、「 オズの魔法使い 」 のお話だったんですね。キコリと出逢って、その後ライオンと出逢って… 世界を旅して、最終的に台風か何かの嵐で家に戻っちゃってるっていう話があるんですよね。
彼女は10年前に渋谷に出て来て、そういう自分が知らないで世界を知って行くという経験をして、その 「 居場所ってどこなんだろう 」 ということを模索しながら、彼女は彷徨うわけですよね。それが最終的に、どこにも行けないんだけど、でもどこにも行かなくていいんじゃないか、みたいな意味合いも映画の中に込められるのであれば、このタイトルはそこまで強くはないのかなぁと思って。
ただ、どこにも行かなくていいんじゃないか、という想いと、でもやっぱり佐賀で取材をしていく中で、彼女自身はどこかに行きたいと思っているわけだから、それはそれで気持ちとしてあって然るべきというか、その辺が難しいなぁとは思うんですけど。

映画を公開するにあたって

この映画を公開する、本当に大きい理由の一つは、その言葉を飲み込ませるというか、要するに渋谷の彼女だけを見ていると、「 彼女が怠惰なだけじゃない?」 「 彼女が甘いだけじゃない?」 「 彼女が悪いんじゃない?」 という考え方もすごくあると思うんですよ。「 もっと大変な人はいっぱいいるし 」 「 もっと悩んでいる人はいっぱいいるし 」 って。そのお父さんの部分とかを抜いてしまっているわけだから、彼女の過去に対して想像力が働かない状態で、あの渋谷を一時間近く見せられるわけですよね。そうするとたぶん、そういう意見が出てきたときに、あの映画は壊れちゃうと思うんですよね。あの状態に彼女がなってしまったときに、人は初めて 「 あ、こんなに辛かったんだ 」 ということに、意識が変格してほしいというか、それは僕が取材で実際に感じてきたことでもあるんですけど。それで10年経って今の彼女を見たときに、同じように 「 あなたが甘いからこうなったんだよね。」 ということを言えますか?… ということも含めて。10年としてある一つのボリュームを持って見れば、その言葉は意味がないんじゃないの?… ということも言いたいなというか、まさに 「 もっと苦しい人がいる 」 みたいなことを言って欲しくないな、っていう。
彼女のいろいろな背景を映画に盛り込まなかったのも、そこで考えることをストップしたくないっていうのが僕の一番の想いだったんですよ。いろんな人の立場で物事を見ていくと、実は何も言えなくなってしまうっていう状況が生まれるわけですよね。何か一つ提示してしまうと、そこで想像力みたいなものが全てストップしちゃう。観終わった後に、「 なんで彼女はああなってしまったんだろう 」 ということも含めて、考え続けてほしいって思ったんですよね。

(photo)

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